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2010年9月

そんなんじゃ情報は出せない。

 個人情報保護の影響でこどもの情報の受け渡しに苦慮
しているのはどこも同じかと思います。

ある町ではせっかく渡した情報がうまく使われないために
いっそうその受け渡しがうまくいかなくなりそうだと言って
いました。
例えば検査健診でこんな項目が困難だったと伝えると、そ
のことばっかりに着目し支援している。
診断的評価が伝わると、そのことに沿った支援をするより
も「ほうらだから大変なのよ。」という捉え方になってしまう
というのです。
そんなんじゃ情報は出せないという状況になりつつあると
のことでした。
決して遅れた町ではありませんが、まだまだ啓蒙啓発や市
町域での支援体制つくりが必要な気はします。

そして私もそれなら情報なんか与えない方がいいと思いまし
た。
よく考えてみると、情報くれという現場がよき支援をしている
かと言えばそんなことはないのです。
ちゃんとこどもの育ちをみれる現場は情報無くても日常の
実践の中からこどもの傾向や情報を検出できている。
できあいのものをもらってこなきゃわからない所はたいした
支援していないのもホント!

「仮に理解して支援する」ことの重要さがあり、支援者の気に
なる感覚にははずれは少ないのです。
それを明確な言葉記述と統計記録で明らかにしていく。
ライフステージを通じた支援はライフステージに応じた支援の
充実によるというのはこのことだと思います。
ただただ、つながるしくみだけつくっても情報を垂れ流しても
そこに意味は少ない。
なるほどと思いました。

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「個性」か…

 ある研修のアンケートが返ってきました。
軒並み好評で、伝えたいことも伝わったようで安堵してい
ます。
ただ一件だけあった記述にひっかかっています。
アンケートはそういうものでその一件が示唆に富んでいる
ことが多いのです。

「やはり個性として捉えて…」云々
確かに障害性や課題、困難という言葉で彼らを説くことなく
支援の仕方について語った研修でしたが、私は「個性」とい
う言葉をその日ひとことも使っていません。
というより私は彼らの直面している現状を捉えた時、「個性」
という言葉で彼らをまだ語ることはできないのです。

彼らの特性を「個性」という温かい言葉で捉えられる程世の
中は彼らを理解し支援し許容し認めているのか?
残念ながらまだまだそんなことはありません。
だからこそ研修会が必要だった訳で、勝手に簡単に楽天的
な高いところに行ってしまってそこから見えた景色で「個性」
と決めてしまうのはいささか乱暴…
「レッテルを張りたくない」と同じ支援者の無理解と身勝手さ
を感じます。苦しんでいるヒトの人生を勝手に楽天的に捉え
て語るのはデリカシーがなく残酷きわまりない。
時間軸が変わっても置かれた状況が変わっても彼らが認め
られ選び取った人生をおくれるようになった時にはじめて
その特性を「個性」といえるのでしょう。

ただ、大事なことは彼らの特性と存在に対する「許容」です。
適応を軸に彼らを捉えず、彼ら自身をみつめていく。
そうしてみつめていった時に彼らは実に豊かな存在です。
まあ、この「個性」のとらえもそんなニュアンスだったのかも
しれません。
でもまだ反面彼らが苦しんでいる以上、私は「個性」という
言葉をとっておきます。

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場面が変わると…

 巡回相談でよくそのあらわれを知っているおこさんが療
育利用をすることになりました。

クラス集団の中では「ちょっと集団に乗りにくい子」という
印象でしたが、改めて小集団でその姿をみてみると、多動
衝動性が強く、やりとりも一方だしで知識もカタログ的、お
まけに不器用です。
言ってみれば特性はけっこう強く、これじゃあこの子は苦労
をしているはずだと感じました。
この子のこのあらわれを面白い個性で片付ける訳にはいか
ないとも思いました。

発達障害児は集団参加の困難が主障害です。
だから集団ではない家庭ではそのあらわれがみえにくく、
家族と共有しにくかったり、そんな彼らが日中生活で頑張
り過ぎてしまって、家庭生活との大きな対比がつきすぎて
育てにくいなんてこともあります。
日中生活でも集団の大きさや構成、担任のクラス運営に
よってその困難やあらわれは変わってきます。

そう、場面によって彼らの姿は変わるのです。
だからこそ、場面によって変動する振れ幅も含めて、彼ら
のあらわれをちゃんとみてあげる目を持ちたいものです。
相対的でない、発達の質そのものを支援者が了解してい
るということです。
「みんなと比べて○○」ではなく「△歳ではこういう育ちの構
造だからこんなあらわれがみえるはず。そう考えると…」と
いうようなアセスメント(評価)でこどもをみたいもの。
そんな目でみた時に支えるべきものがみえてきます。
ただ、面白い個性として見過ごされてしまったり、集団に居
られるからよしにされてしまったりということも減ってきます。

ただ、一方でこの場面によるあらわれの変動性は彼らを救
ってくれることは少なくありません。
よき出会いやよき場が彼らの支えになるのです。
出会いをつむぐ、よくやれる集団規模や構成員を模索する
のも重要な支援です。

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レッテル

 よく「こどもにレッテルを張りたくない。」という言葉を気に
なる子、発達障害サスペクト児に対する評価でつかう支援
者がいます。
正直よくわからないのです。

レッテルじゃなくて「事実」の話をしているのに、「間違った、
一方的なフレームでこどもをみたくない」と言っているのは
論理のすり替えだと思うのです。
こんな支援者はこどもの行動特性、障害を語る言葉を持ち
合わせていません。

行動特性は事実です。
事実を語る言葉が足りない。
ということは言葉の背景となる「行動特性が何を意味する
か」の学びが足りないのだと思います。
そして、事実を語る客観性が足りない傾向があるように思
います。
別にできないことやわからないことをあげつらう必要はない
のです。
定型発達と比べて遅滞はないか、アンバランスはないか、
特異な行動はないかを感情を交えずに集積して言葉にす
ればいいのです。
この「感情を交えずに集積して」語るまなざしを客観性という
のです。

日々の支援はこどもの行動特性にとらわれる必要はあり
ません。
その個の得意や好きを生かし、ちょっと支えればできるこ
とをさらに伸ばし、参加や関係の中でよき時間が過ごせる
ように支えればよいのです。
さらに、それを診断や評価につなげるかはその個の困難
の程度やタイミング、家族の文脈による訳で必須事項では
ありません。

保育者、教育者、支援者は情熱的です。
そうあってしかるべきです。むしろそうじゃなきゃいかん。
けれども、情熱的と情緒的とは違うのです。
子育てが情緒的、感情的になってよいことはないのです。
一貫性が揺らぎ、大人の御気分や都合次第になっていく。
それを家族が行い、こどもの存在を脅かすようなものは
「虐待」と言われるのです。
支援も支援者次第で客観性、一貫性を失った時には「虐
待」と同じなのです。
そう考えると、「レッテルを張りたくない」というのは、学びと
客観性が足りず情緒的なのだと思います。

こどもを語る言葉をたくさん持ちたい。
こどもを見つめる視点をたくさん持ちたい。
事実を捉えるまなざしはちゃんと持ちたい。
そして、熱情があふれ出す子育てをする。

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アセスメントの視点

 秋冬にプランつくりの研修をいくつか頼まれていて資料
つくりをしています。
プランをたてる=意図的に関わるということになりますが
いくつかのまなざしを持ってこどもたちの姿をとらえないと
できないことをあげつらうだけのつまらないプランになるな
と感じました。

ひとつには困難をみるまなざしもそれなりに多様でなけれ
ばこども像を描き出せないと思うのです。
プランを作る前の評価をアセスメントといいますが、アセス
メント=検査をとることと誤解している場合があります。
確かに検査は客観的な指標ですがそこではかれるものに
はかなり限界があります。
たとえばwiscは個の認知的なばらつきなどははかれますが
対人発達や自閉性そのものをみることは難しいのです。
ばらつきだけみてそれを埋めようとか、得手不得手をみて
それに沿っていくだけではちょっとこどもの育ち全体像は
見えないし、先の育ちを見通すことは容易ではありません。

きっと以下の3つはおさえたいものだと思います。
・遅滞
・アンバランス
・特異な行動、特徴的な行動

この3つをまとめて「障害」とか「発達の凸凹」というのでしょ
う。「障害」「発達の凸凹」を総合的に捉えていくことは本当
に必要です。
そして、それは定型発達を知ることで対比的に描き出されて
くるものです。
発達を知ることの大切さはここにあります。

 それからもうひとつアセスメントに大事なまなざしは、
・好き、得意、できている行動をみる
・ちょっと支えればできる行動を見る

ということだと思います。
前者は本人に備わっている特性や行動を基盤に行動形成
していこうというオペラント行動をみる目=応用行動分析的
視点です。
後者は最先端の力を支えて出現頻度を上げようという発達
の最近接領域を支えようというまなざしです。
前の3つだけでは困難の解消が主眼になったつまらないプ
ランになってしまうのだと思うのです。

こんな風に考えると、ちゃんとアセスメントするためにはかな
り広汎な発達科学に対する知識が必要で、そのために我々
はきちんとした学びが必要です。
「こどもが困難なのじゃなくて、支援者が方法や視点を知ら
ないだけ」というのは本当によくあることのような気がしてき
ました。

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「食べる」

 食べ物をとるというのは社会的な行為だと思うのです。
昔、卒論で摂食障害をやった友人が、「知ってる?食事の
定義はみんなで食べることなんだよ。」と教えてくれてひっ
くり返ったのを思い出します。
我々大人もヒトと本当に仲良く成りたかったら食事か宴会
をするもんです。

 発達障害児の困難の中で、「偏食」があります。
一次的には口中の感覚過敏や彼らの嗜好興味の狭さに
よるものだと思いますが、発達障害を関係性の困難ととら
えた時には偏食は社会性のトラブルだと感じます。
そう感じているので食事は大事な支援場面です。
欲求が目前にあるので行動形成しやすいというのがまず。
「ちょっと食べて」「これだけ食べて」「これを食べたら次は
…」でやりとりが深まっていきます。
折り合いをつける、相手に合わせることが必然とできてきます。
「偏食」が和らいでいくと全体像がかわっていくのがわかります。

 それから、意識しているのは「食べ物は分けてみんなで食
べる」ということ。
・おやつは2個1封を用意して開封した後に隣の人に渡す。
・大パッケージを開けてみんなに一個ずつ配る。
・大皿に盛ってみんなで分け合う。
・そもそも物をたべる時は他者にあげようと思って食べる。
過去に食事制限のあるおこさんがいたこともありましたが、
こんなやりとりの中で固着しないで済んだことがありました。
食べ物を分け合うことでつながっていくとでもいうのでしょうか?

さらにはどこにどう座って食事を摂るかもけっこう考えます。
・介助度が多い時期は左側やコーナーを挟んで左にこども
をおきます。介助のしやすさを考えて。
・自立度があがり、やりとりを楽しめ「おいしいね。」ができる
頃、対面にします。
・食事調理場面では教室正面に並行に机を並べ、製作など
は教室正面に垂直直角に並べるなんて微妙な構造化もして
います。
・さらにこなれてきたら対面もやめて全体で向き合うパーティ
ー形式なんてこともやります。

こんな風にみていくと物を食べることには情緒を開放したり、
関係を紡ぐという効果があり、そのことは関係発達支援には
重要な手だてだと思うのです。
そんな訳で我が社は食ってばかりです。
食育というのは栄養や産地の話、調理や食べ方のありように
なっていますが、こんな風に本質的には「食事が社会的な行為
である」というのを教える作業だと思っています。

わたしの顔をみると「アメちょうだい!」とやってくる園児が居ます。
アメ玉ひとつあげると、必ず「先生は?」
彼はアメ玉を食べにくるのではなく、私に構ってもらいに来るの
です。

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多動の鑑別

 発達障害と虐待、愛着障害の状態像は類似し重複する
ということが知られるようになってきました。
さまざまな困難の土台に発達障害、愛着障害があると言っ
てしまってもよいのかもしれません。
両者の鑑別は難しいものですし、発達障害児の状態像の
厳しい個はよくきいていくと愛着の問題を抱えてことが少な
くありません。

そんな中で現場の直感でしかありませんが、最近、落ち
着きのなさの質は発達障害と愛着障害とはちょっと違うの
だろなと感じ始めています。
それは、「動いてしまう、落ち着きがない」と「イライラしてい
る」の違いにみえます。

発達障害の落ち着きのなさ、多動性は刺激に反応して起こ
ることが大部分で、対人関係については比較的くったくなく、
単純に関わりそのものだけでトラブルの起こることはそう多
くありません。最近はADHDだけというケースは減少してい
て自閉症スペクトラムとの重複タイプが多いと言われてい
るようで、そうだろうなと思っていますが、それにしても彼ら
は自分のペースで生きてしまいがちでも穏やかなのです。
一方、愛着障害に根ざした落ち着きのなさは動いてしまう
のではなく「イライラしている」のです。
周囲とは関係なしに本人がジリジリしている印象を受けま
す。だから、きっかけが分析できないことがあるのです。
何かに反応して動き出すのではなく、もともとジリジリして
いる所にたまたま何かが飛び込むと暴発してしまうので、
「どうしてそんなことで」という場面が少なくありません。
そして、関わりを巡るトラブルが本当に多く、イライラ、ジ
リジリと常に連動しています。
そう考えると、「ずっと動いている」のと「ずっとイライラして
いる」とは本質的に違うのです。そこはみておきたい。

 そして、やはり大事なのは本人の状態像だけで判断は
できないということです。
家族の養育態度や支援者が接してみた時の家族の様子
とあわせ見たときにみえてくるものがあります。

 さらには、この両者の違いは問題がどちらかに起因する
かという二者択一的な探索に用いるものではなさそうです。
その個の状態のおける影響の強さとして考えたい。
というのも重複は山ほどあり、ひょっとしたら単純性の愛着
障害って案外少ないのかも知れない等と感じています。
ADHDは多動衝動性優勢、不注意優勢に分かれます。
愛着障害も抑制型と脱抑制型に分かれます。
結びつき具合の組み合わせもあるのだろうとも思っています。
あらわれが外在化するタイプと内在化するタイプはありそう
です。

先日、「高機能のおこさんが過敏でトラブルが多くて困る」と
いう相談がありました。
すべてが刺激で反応しやすく、トラブルが本当に多いとのこ
とでした。
けれども、「すべてが刺激で」という所がどうもひっかかった
のです。よくきいていくと愛着の問題が伺われる家族関係、
その個の疎外がありました。
このケースの場合は虐待性のものというよりも、個の発達
障害に起因する育てにくさや家族の多忙の影響などによる
困難といえそうでしたが、トラウマティックで初期関係の形成
ができていないのは確かなようでした。

 支援の質は当然違います。
簡単にはいえませんが、愛着障害の影響が強い場合には
「参加を外す、参加に力点をおかない」ことが大事だと思
います。
「みんなと」の前の課題がおおきいヒトに参加を求める支援
をし過ぎることで支援者の疲弊がおこりがちです。

ちょっと難しい話題ですが、最近、現場でよくある問題です。

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くたびれ果てた巡回相談の話…

 ある園訪問、巡回相談でのことです。

1クラスから5ケースもあがったのでひとりひとりというより

もこの5人を抱えてどういうクラス運営をしましょうか?とい

う内容を提案しました。

そうしたら担任が面白くなさそうなのです。

抗弁ばっかり。ん?と思ってきいているとどうやらいろいろ

気になっているけれどなんとかクラスは回っているので問

題はないと再三言うのです。

その中で個に添った要求水準の話や課題活動は同じだけ

ど方法やゴールは違うあり方のお話ししてもやけに突っか

かるのです。

言葉を尽くしてなんとかまとめて帰ってきましたが、なんだか

気分はよろしくありません。

・どうも5ケースもあげた割に、気になる子としてエント
リーすることに担任は納得できていないようです。
→それは巡回相談員にぶつけることじゃないでしょう。
園内で整理すべきです。

・そして個別のケースについての指導助言や対処とい
う観点では話を聞きたいようだがクラスの話は聞きた
くないようです。
→対処をいくつも語ってもできないと思うのですが、この
齟齬はなんでしょう。
「大勢居て大変だね。」って言ってもらいたいんでしょうか。
まあそして巡回相談員にはクラスのことには口を出され
たくはないのでしょうね。

・個別的な配慮への違和感を語る中で出てきたのは、
「他の子がずるいといったら?」「やりたいと言ったら?」
ということばかり。
→それは他児にも許容し、選択、実施してみればよいこ
と。必要な個は継続していくし、そうでない個は卒業して
いきます。「ずるい」に対する言葉も用意しておくべきで
す。クラスの保育としての手間が掛かるから配慮が必要
な個に対して必要なことをしないという向き合い方は正直
ちょっと許したくない…

今月はこどものよき暮らし、育ちを支えるという観点でなく自分

のペースと考え方でクラスを回すことだけをしている担任と出会

うことばかりでほとほと疲れています。

クラスがなんとなく回っていればいい、私は困っていない。

こどもは困っているのです。

やることはまだまだありますね。

こんな支援者に対しても包容と同化が基本ですが、ちょっと闘う

必要はあります。

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「学習を支援したい。」という思い

 学齢期の巡回相談であがるのは、「学習の保障をした

い。」「遅れを支えたい。」「定着が難しいので支えたい。」

というような訴えです。

この視点と思いは本当にありがたい。

いいか悪いかはおいて学校は参加をしながら知的学習を

する場所になっていますから、その基盤を何とかしてあげ

たいという思いを持ってくれるのはありがたい。

けれども、このまなざしは先生を苦しめます。

正直、我々お手伝い業者も苦しみます。

個の学習の困難を支えるとりくみには個別的なしつらえが

必要で、現実的にはそんな時間はとれません。

とれともいえません。

本当に悩ましいのです。

・だから授業内での参加を支えよう。
 代償になってしまう所が苦しいのですが、みんなの中
での「できる」「わかる」「やれる」をいかに支えるか、授
業の中でいかに個の学習課題に迫るかなのだと思いま
す。

・できることのアセスメントと定着
 どうしてもできないことに着目しがちですが、できている
ことをしっかり押さえていくことって大事じゃありません。

・代償を探す
 違うやり方、困難を補う道具、支援ツール。
書けないけどいえる。いえないけど書ける。
計算機、パソコン。

・同じ事をやっているけれど…
 「プロセスが違う、手だてが違う。」
 「ゴールが違う。」

・宿題を配慮する、工夫する。

・小集団での学びや教えあい、支え合いをつくる。

・個人の課題に向き合える全体の学習場面をつくる。

思いつくままあげましたが苦しいです。

ここで「やったほうがいいことと出来ることは違う」けれど、

1日5分、ひとつでも何か個に配慮できるだけでも意味が

あるという努力目標が出てきます。

むなしいのですが、せめてもの押さえですねえ。

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幼児期と学齢期のギャップ

 今週はじっくりと療育教室のこどもたちと過ごしています。

水遊びをじっくりした夏の成果があるようで、個々の変容が

本当に手に取るようにわかります。

 一方、秋口ということでなんとなく就学のイメージでこども

たちをみつめてしまう時間があります。

確かに大きな変容がみえ、保育の中では集団の中でチャレ

ンジできているけれど学校に行ったらどうかな?という思い

です。

幼児期と学齢期の生活にはギャップがあります。

現代の子育てと子どもの状況などは大きいのでしょうが、幼

保園と学校との生活の対比が大きくなっていることは確か

かなと思います。

特別支援教育という就学後の支えるシステムは進んだはず

なのに基盤となる学校生活は意外とタイトで、発達課題を抱

えたこどもたちもゆるやかに参加できる余裕はなくなってきて

いると感じるのです。

入学すると、参加と内容が迫ってきて幼児期の生活とはまる

で違う。幼児期の適応がまったく参照にならないのです。

その生活のギャップは御家族はあずかり知らぬこと。

学校生活を考えるのは本当に難しくなりました。

参加を大事にした生活の中では生活年齢の半分ほどの

育ち、3歳の節目をこえている、おおよそIQ50~60あれ

ば生活の自立はおおよそ成り立ちます。

その姿は発達課題を抱えたこどもたちにとっては幼児期

後半の生活では「充実」という印象さえ我々はもてます。

けれども、学齢期では学校ではIQ60では教科学習はな

りたちにくい。ボーダーラインのこどもたちも能力内差を

念頭に入れ、それなりの配慮や意識をしなければ苦しい

はずです。

 いろんなこと感じます。

やっぱりインクルーシブ教育的なまなざしになります。

「対処」の充実ではなく、そもそも全体のありかたの試行

錯誤が必要なのではないか。緩やかさもチャレンジも用

意されているような…

そして、幼児期に何をしてあげたらいいのかなとも思いま

す。なんとかやっていける力、なんとかやっていける関係

幼児期をこえても支えるシステム、連携。

学校に行くために幼児期はあるためではない。

でも。

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早期発見をみなおす

 早期発見、母子保健の研究会を立ち上げました。

初回、様々な議論が。

課題が多い割に多忙で、方法論やあり方の研究が行われ

にくい分野の学びをオフの場面でという趣旨で始めました。

参加者多数、職種もいろいろ。

「ケースが増えていて、共有もしにくい」という状況の中で何

をどうするかが話題の中心です。

・健診以降に顕在化することが多いので移行支援、連携、
巡回相談との連携が重要。
しかし、そこにはヒトやシステムが介在してうまくいかない
ことも少なくない。現場現場のアセスメントと支援がしっかり
できていくことを大切にしたいもの。今の支援で支える。

・保健としては落ちこぼし、見落としがないようにという思い
は強いが、100%の健診はない。8割、9割の健診でもよ
く、どこか他の資源、時期に発見されたとしても「見落とした!」
ではなく、「見つけてもらってよかった!」と思いたい。

・「家族の子育てを支え、応援する健診を!」
主訴、動機がない中でチェックされ、「おたくのおこさん…」と言
われてうけとけないのは当然である。
子育てしにくい時代に、すべての子育てに支援が必要だからこ
そ、子育てを支え応援する健診を。

いくつかの前向きな議論です。

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動いちゃっているヒトは止められない

 表題の通りです。

だと思いませんか?

多動をなんとかしようだなんて基本的には無理なのです。

・動き具合をコントロールできるようにする。

・ひとめぐり動いてきて戻ってきたらよしとする。

・動いちゃっててもやることやってあればよしとする。

・あんまり見ていられなかったら自分がおさらばする。

 そして結果的には「こどもの問題じゃなくて大人の問題」

こどもが自分でもどうしようもない状況で苦しんでいて

その基盤が脳の機能的問題という容易ならざるものに

ある以上そう簡単にかわるものではないはず。

大人が変わるべきものだと思うのです。

ただそこに修業に近い視点の転換や立場の変更の必要

がある時があります。

けれども、その修業しようじゃないか。

生涯発達といいますから…

 それからもうひとつ。

「困難事例なんじゃなくてこっちが方法を知らないだけ」

なのではと思うことにしています。

ちっぽけな、無力で、狭量な私が困っていることなんて

絶対どこかの優れた研究者や支援者がチャレンジし、

ヒントは見つかっています。

こどものせいじゃないんです。こっちの問題。

以上最近私が思っている3つでした。

「動いちゃっているヒトは止められない。」

「こどもの問題じゃなくて大人の問題。」

「困難事例なんじゃなくてこっちが方法を知らないだけ」

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地域特別支援コーディネーター

 最近きいたこと。

我が静岡県でも、地域特別支援コーディネーターというカ

テゴリーのスタッフを配置することになり、今年度から養成

?をはじめているそうです。

中学校区を地域の支援単位として考え、そこを束ねるリー

ダーを配置するということだと思います。

支援を巡って「地域」の捉え方が豊かで、具体的になって

きました。

・この中学校区という広さは徒歩、自転車での生活圏になり、
最小生活単位になります。具体的で細かい手とまなざしが
届きそうな広さです。介護の分野でもこの単位で支援がなさ
れており、実効性の高い地域概念だと思います。
また、最近、特別支援学級の再配置が行われています。
こまかく学区ごとに配置されていたものをもう少し大きな中学
校区に配置していく流れはちょっといただけませんが、専門性
がその地域単位で確実に担保されるのであれば、私はまあ
容認の範囲かなとは感じています。

・市町域での支援
 中学校区の支援の連合体としての市町域があります。
個々の中学校区には特色や過不足があるかもしれないけれど
市町域ではサービスや学級種が整備されているという形が用意
されてほしいものです。
特別支援教育の体制としては市町に各校を支える巡回相談員
等のスタッフが配置され、それなりに回るようになってきている気
がします。

・圏域という概念
 障害福祉領域での少し広い地域設定です。
市町毎でのサービスが配置されるようになった一方で、財政的な
問題や地域資源の偏りが問題にもなってきており、市町単位では
担保整備できない分野を結びつきの強い大きな生活単位で考えて
いこうというための地域概念です。

ちょっと前は「地域福祉」はまだまだお題目で「地域ってどこよ?」

と思いましたが、このように具体的な単位や活動がみえてくると

徐々にではありますがそれに向かって進んできている気はします。

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次の方向性

 ある特別支援学校の研修の方向性をうかがいました。

ここ数年、初期発達をしっかりおさえて構築していこうとい

う方向性で研究している学校です。

その流れからこどもからの反応ややりとりを引き出す。

コミュニケーションや応答、働きかけを引き出すというこ

とを大切にしているとのことでした。

 反構造化論の記事を思い出しました。

反構造化のヒトたちはその適応第一主義(にみえる)に違

和感を覚えるのでしょう。あわせることを求める支援。

そう、それだけでは足りない。

こどもからこちらへの発信や関わりそのものが起こるように

したいもの。

ただ、難しいのは彼らの側からの働きかけや動機が弱い以

上、大人が出ていく分量がどうしても多くなってしまいます。

そこで待つ。みる。教えすぎない。時間遅延をかけること等

が絶対必要になってくるはずです。ここに修業が必要。

 もうひとつ思い出しました。

よく「こどもが受け身で…」といいます。

違いますよね、きっと。

正確にいうと「大人が出すぎで困る。」なのです。

お迎えには行かねばならないのだけれどもお迎えを越えた

働きかけをしているこっちの問題です。

たぶん。

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「専門性」のありか

 ある大規模な研修会のお手伝いを頼まれて資料などを

みました。もちろん自閉症・発達障害をテーマにしている

のですが、関わる職種は本当に多様です。

よく見てみると、ひとつとして重要でない職種はなく、ケー

スや特性、連動するニーズの多様さに合わせて必要な支

援も多様で細分化されています。

そう考えてみると、支援者ひとりひとりは自分の仕事、ひと

りの支援と思っていますが、ひとりひとりが地域の資源な

のです。

そう思うと支援者が自分の仕事を深めて行くことは大切で、

そのことこそ「専門性」と言えるのではないかと思いました。

没頭していくことこそ「専門性」、そこに向かおうという意気

が大切だなあと考えています。

引き受けていくことで始まるものがあります。

どこかの誰かがもっと高度な、深い支援をしてくれる訳では

ありません。そんなヒトがどこかに居る訳ではありません。

今、そこにある支援を徹底していく。

そのことを専門性というのだと思います。

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反構造化論に対してどう語るか?

 保育現場には視覚支援、構造化についてまだまだ根強

い反発があります。

ひとつには、「そんなことまでしなければならないのか?」と

いうサボタージュタイプ。そこまでしなければならないのは

保育の役割ではない。療育に行けみたいな論理です。

もうひとつは、「大人がこどもをコントロールするための方

法論なのでは?」という批判です。

前者は気になる子、発達障害児のケース数、支援の実態

をご存じなく自己完結した保育をされている方に多いよう

です。

後者はけっこう痛い所をついてきています。

実際、簡単に絵や写真を見せてそつなく流れに乗せること

のみに腐心している、表層的な理解の現場も残念ながら

少なくありません。

これは本当にダメ。

視覚支援や構造化は自立のための環境整備、情報伝達

であり、本人にその実施の主体があります。だから、本人

にそった改善や試行錯誤が必要でステップアップも必要

なものです。

環境の意味を捉えられない、手順や手続きを保持できない

こどもたちの特性を支援するためにこうしたものの利用は

行われるもので、行われるべきです。

こういう事実を理解した時には簡単に批判はできないはず

です。

関連して「こういうものを見せるから覚えられない。」という

批判もあります。

これも同様の認知特性に対する無理解です。

じゃあ鍛錬すれば覚えられるのか?一体いつまでどのように

鍛錬すれば覚えられるのか?注意叱責なしにそれをやれる

というのか?できない、わからないために不全感や自信を喪

失していく彼らは放置されていいのか?

そういう点でいえばそつなく集団に乗せる支援であっても乗れ

ない苦しみを与える位ならばすべきではないかと私は思って

います。

そして、こどもの育ちの多様化、保育に投げ込まれるニーズ

役割の多さの中で、個に寄り添う支援が難しかったり、ヒトと

いう資源によって支援することが難しくなったりしています。

でも支援を途切れされないためにはこうした手だては補完的

で不可欠なのだと思います。

さらにはユニバーサルデザイン、インクルーシブの目的で、

視覚支援、構造化を用いることが重要です。

こうなるとこの技法はクラスつくりの方法論であり、伝達の

ための保育者の技術になります。「お話しをみせる」といっ

た意味合いや気になる子や発達障害児を巻き込む保育の

展開です。

もうひとつ重要なこと。

そつなく集団に乗せるようにみえる設定度の高い保育場面

の一方で、余裕や間合いをもって個に接する、仲間をつな

いでいく保育場面もちゃんと持ちたい。

昔よくあった自由保育か?設定保育か?の議論と似ている

と思うのです。正直、無意味。

両方必要なんだから両方すべきで、どっちかしかとれないの

であれば好きな方とればいいのです。

へんな二者択一や路線闘争しても意味はないのです。

二元論で現実を語る無意味さは時代が証明しています。

保育の幅を広げる意味で、選択肢を多く持つことは重要。

道具をどう使うかは持ち主次第。

ただ、すべてはこどものため。

大人のこだわりの、形式的な「保育とは!」ってけっこう邪

魔なことがあります。

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「視線があわない」の理解

 自閉症スペクトラムの指標のひとつに「視線があわない」

があります。このことが知られてきて幼児期の現場では、

意識されるようになってきました。

ただちょっとどうかと思うのは、そのことを問題視してどうに

かしようとけっこう迫ろうとすること。

視線というまさに対人的な刺激に直面することが苦手で逸

らしているのに、「顔を向けて視線を合わせて」みたいなア

プローチでけっこう迫ってしまう支援者がけっこういます。

これは「こだわりをなくす」みたいなもので、自分でもどうし

ようもできない彼ら特有の感覚特性、感じ方を違う感じ方、

文化の我々が無理矢理介入、変えようと迫ろうというひど

いお話しなのだと思うのです。

また、これは彼らの抱えている困難は視線があうか合わ

ないかという枝葉末節なのではなく、コミュニケーションそ

のものや対人的やりとりに対する動機やスキルの問題で

あるにも関わらずその本体でなく、表層をなでこするような

もの、「木をみて森を見ず」なのだと思います。

 そして不思議なもので、関係が深まると自閉症スペクトラ

ムのこどもたちも必要な場面ではこっちを向いてくれます。

それは、依存の保障、行為をはさんだ共同共感、こどもの

興味関心をはさんだ大人からの意図的な働きかけなどをし

ていくとおこるもの。

・関心があるから見る。

・やりとりそのものに動機があるから見る。

これと同じような現象に「ことば」の遅れに対する支援があり

ます。ことばはある意味結果なのにもかかわらず、「ことばを

増やす、しゃべらせるアプローチがありますか?」というお尋

ねはまだまだけっこうあります。

大部分において陽性症状(特異な行動)は指標でこそあれ

直接アプローチするターゲットではありません。

それは問題行動への対処が支援でないのと同じです。

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