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2011年5月

コンサルテーションの語り口

 あるケース会議の席上のことです。
ケース提出者に居並ぶ専門家が助言していくのですが、新年
度から参加したある専門家の物言いがちょっと気になったの
です。

最後に私はこう考えるのだけどどうですか?という語尾でまと
めるのですが、そこに至るまではこうした方がいい、ああすべ
きだと支援を否定し、問題を指摘し続けるのです。
指摘の内容にまったく問題はなく、おっしゃる通りなのですが
聞いていて不快感を感じること、この上なし。
この不快感は会議の場、全体に広がっていきましたがご本人
は気づいていない。

なぜだろうと思ったのですが、考えてみたらコンサルテーション
の構えで助言しているのではないからなのです。
専門家による専門家に対する助言だとすると、そこに絶対に
相手に対する尊重がなければならない。
何の筋合いがあって、一見の専門家風に相手の仕事の否定
が許されるのか。

思うのです。
最近は師弟の契りを結んだ関係でも、そう簡単に頭ごなしの
否定などはしてはならないのです。
望んだ関係であっても否定などしてはならないのです。

ヒトはつまらないものです。
内容でなく、言い方にひっかかる。
そうであるなら聞いてもらえる言い方をすべきです。
これって実は大事なこと。

あと気を付けなければならないのは、上席につくということは
師匠師範になることではありません。
ただの管理職であり、役職です。
そのヒトに師事する訳でも、雇ってもらうわけではない。
勘違いしてはいけない。
その辺りの勘違いがだいぶあると思うのです。
パワーハラスメントとかモラルハラスメントはそこから起こるの
です。
うるさくなったとか攻撃的になったとか縦社会が崩壊したという
ことではなく、古い側の人間の勘違いだと思うのです。
管理責任があなたにあるからと言ってあなたが決めて良い訳で
はない。
管理責任があなたにあるからといって部下はあなたの弟子でも
奴隷でもない。
これはコンサルテーションの関係でもスーパーバイザーとスーパ
ーバイジーの関係でも同様です。

これはとてもとても気を付けなければならないことです。

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愛着障害への支援の基礎

 たまたま2日続けてあったエピソードです。
愛着障害への支援がうまくいかないというのですが、それも
道理と思ってしまいました。

情緒が安定せずグラグラして泣いたり暴れたりしているのに、
みんなと同じ内容を同じプロセスで同じ要求水準でやらせよう
としているのです。
それは無理なお話しです。
「参加」の前の自己肯定感が揺れている、大人との関係性が
揺れているのに「みんなと」なんて無理に決まっている。

愛着障害にはまずは「参加を外す」ことだと思うのです。
そして援助レベルをあげることによって、受容されている、関わ
ってもらっているという実感を高めていくことだと思うのです。
それからもうひとつ。
「やってきて」じゃなくて「一緒にやるか」にすること。
時には「やってやったぞ、おいで」にすること。
このヒトたちに必要なのは自立じゃなくて依存。

もちろん、こんな個別的な対応が容易でないことは知っています。
ただ、できるできないとこどもが求めていることとは違います。
大人の都合が支援の方向になることは本質的ではない。
こどもの発達特性を理解して、支援の方向性を導き出す頭を持
ちたいものです。

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どうしたらいいものか?

 なんだか考えてしまいました。

①ある幼児期の支援体制検討の会議の席上、保育園側から
の発言にびっくり
・保健師さんに相談や家族とのやりとりはみんなやってほしい。
漏らさず健診でお願いしたいという雰囲気ありあり。
・療育で障害のあるこどもはみんなみてほしい。

②ケース会議でのこと。
よく適応しているケースがあがりました。
適応しているならいいじゃないと思いきや。
「診断名がついたので…」よくわからん。

③保育現場からの保育側の思考についての指摘
・気になる子とそうでない子を分けたがる。
・家族がわかってくれないことばかりいっている。
・視覚支援…お話しを聞かなくなる?

猛烈に悪口書きたくなりますが今日は止めておきます。

大事なこと…
ヒトは自分の状況でしかものを考えられないのは仕方ないと
思いますが、自分ののみたいようにはこどもをみれないのです。
あんまり勝手なことばかり言っちゃいけませんね。
時代と状況は変わっています。
「井の中の蛙大海を知らず」
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。」
という言葉を思い出します。

あんまりひどいと魂の清らかさを疑いたくなります。

いかん、十分悪口です。

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相互作用

 「おっ」と思った出来事2点。
健診の事後フォローの場でのできごとです。
2歳前後のこどもたちです。

①虐待ケースの変容
数ヶ月前、母親は座り込んで携帯をいじっている。こどもはあ
ちこちで遊びつつ、トラブルを起こしていたケースです。
このケースはお母さんがこどもをかわいがれない思いや家庭
の問題を保健師さんに吐露し、早めの保育園入所になりました。

半年後、おこさんはかなりコミュニケーションの力をつけていま
した。それはまだまだトラブルあったり、荒い所もありますが、
友達を誘い合って響き合ったり、大人に要求を伝えたり共感を
求めたりができています。
おかあさんとも良い関係が…
保健師さんには「こどもが変わってきてかわいくなってきた。」と
いうことを今回はお話ししていったそうです。

②ママを思いやる
お母さんが相談受けている横で、私と遊んでいたあるおこさん。
発語こそ少ないですが、共感性豊かで実に楽しく過ごしました。

ふと横をみると、相談の中でお母さんの目から涙が…
私は見て見ぬふりをしていましたが、この子は動きをとめ、気
にしています。
けれども、今は私と遊んでいる最中、とても気になるけど、こちら
にも愛想よくしています。
その内になんだか、ママは気になるけどそのまんま気にしたら、
僕が気にしていることがわかっちゃうし…みたいな表情とふるま
いを始めました。
このおじさんとも遊びたいし、遊んでもらっているからママの所行
くのも悪いし…なんて顔もしながら。

私がなんとなく関わりを緩めると、この子はお母さんの所に行き
ました。ママの頭を良い子良い子して。

1歳半の発達指標としてこどもは「他者の苦痛を思いやる」ことが
できます。まさにそれがみえたような瞬間でした。そして、それ以
上に初期発達における共感は深い。

2つのケースでみえるのは、子育ては母子相互作用だということ
です。
我々はこどものセンセイなのでこどものために家族をというベクト
ルで仕事すること多いのですが、このようにこども自身にも家族
と響き合いたい力があります。
そして、そのことはこどもの変容が家族への変容につながること
にもなります。
昨今は関係をみる、関係発達をみることの大切さが言われるの
はこのような理由もあると思います。

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「気になる」じゃダメ

 支援者にはことばが必要です。
こどもたちに語りかけることば。
支援のありかたを考えることば。
御家族と共感し共同するためのことば等々…

思うのです。
そう考えると、「気になる子」ってのはダメなのです。
その気になる中身を言語化することができなければダメなの
です。
豊かに具体的に。
そこから子育てがはじまっていく。

だからこそ、未熟なセンセイもベテランズも、できるだけ語り
考え、だれかとつながるトレーニングをしよう。
発信するトレーニングをしよう。

支援者にはことばが必要です。

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理解します。

 苦しいだろうなという園の先生のつぶやきです。

クラスつくりが難しくて、気になる子をクラスの一員として接して
いくことが難しくて心が折れそうになり、しっかり向き合うことが
厳しい。向き合うことをしなくなってしまうことがある…
けれども、やらなくては。

ねえ。
あることでしょうね。
この先生は自分でこたえも行く先もだしていますが、この語りを
ここで今、表現することが必要なんでしょうねえ。

研修のアンケートなどでそれを今ここで書いてどうするの?
というものが出てくることがあります。
特に攻撃的なものには人格障害のようなものを疑ってさえしま
うこともあります。

一方、こんな語りは必要なんでしょうね。
研修や講義はクールな正論や方法論を伝える場です。
けれども、それを受け止められない状況ってある。
その感情や状況は理解したい。
ここで今、その気になる子に向き合うことに迷いがちなこの先
生を説き伏せたり、理詰めで責めるなんていうヤボなことはし
たくないものです。

大丈夫なんです。
迷っているヒトは絶対に引き受けて、向き合っていく。

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個別のプラン作りと実践と

 とある園訪問に行ってきました。
幼稚園で、幼児期の特別支援教育の研究園をしていたことも
あり、体制つくりが遅れていると言われている幼稚園にあって
支援の手順や視点は先生方の手の中に入っています。
研修の内容も今年度の個別の指導計画の吟味でした。
「どうしましょう?」じゃなくて「こうしてみようと思いますが?」と
いう方向性はかなり前向きです。

それでもケース検討をしながら、書かれたプランをみながら先
生達と「難しいねえ。」と考え込んでしまいました。
プランの様式の中で、支援の方向性がうまく表現として描き出
すのはなかなか容易ではないのです。

長期目標 箇条書きにすると個に対する大きな子育ての意
図が描出しにくい。
短期目標 大きな方向性を支える具体的な目標を選んで定
めるが、具体的過ぎると枝葉末節に見えてしまう。
・そう考えると、長期目標と短期目標がすばりとかみ合う表現
にはかなり支援者の力量が問われる。
支援の動きの中で
①個の課題とクラスの課題をつなげるためのクラスつくりの見
通しやプランとの連動や明確化が必要かも知れない。
②個の状態にあわせて家族との共同の仕方も変わってくる。
その見通しやプランもあってもいいかもしれない。
特に要保護関連のケースや家族が困難を抱えている場合には
そんな押さえがあってもいいかもしれない。
プランの、支援のゴール
よく考えたらプランをつくる必要がある時点で「みんなと同じに」
みたいな目標設定がゴールであっては違うのかもしれません。
特性(認知、障害、発達)にあった支援を、その子の発達課題
にそった要求水準と手だてでということが「個別の」の必要性
です。

せっかくなので書いたものがやること、やりたいことを現実的に
豊かに表現するものにしたいのですが、そこまで行くのにはまだ
まだ研究研修が必要です。
でも、そこに行かないとただ書くという手続きをすることになって
しまう。支援のための設計図でなく、支援者の事務仕事のひとつ
に終わってしまうのです。

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発掘ケース

 ひょっとしたら前回の記事とつながっているかもしれません。

ここ最近、お年寄りの介護や成人への精神疾患への支援で
福祉が入ったら、何十年も引きこもっていたケースや家庭内
に居たケースが見つかるということをよくききます。
そしてどうも背景に知的障害や発達障害があるようです。

うーん。
考え込んでしまいます。

・地方都市はまだまだ資源が少なく、いいタイミングで必要な
支援を受ける、求めることはできなかったのだろう。
・そして、地方では困難課題に対する理解や支援をうけること
に対する啓蒙啓発がまだまだ進んでいないのであろう。
・発達の課題を抱えるということは参加に課題を抱えやすい
ろという属性を抱えている。ケースを個人を孤立させないという
ことは大事なことなのだろう。
・学校へ行っている間は「不登校」であることで認知され支援され
るがその後は途絶えてしまう。「不登校」「ひきこもり」のケース
伝達、共有は必要なのだろう。

それにしたって…

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適応指導教室と通級指導教室

 とある教育の場でうかがったことです。

不登校、非行の背景に発達障害がというのが知られるように
なってきましたが、この街の適応指導教室においても課題に
なってきているということを聞きました。

小学校で特別支援教育の対象であった子が中学に行って
不登校傾向でとか、過敏性と不安傾向が高い子が登校しぶり
気味というのは私の経験見聞でも少ないものではなくなって
きてしまいました。

数年前にきいた統計では適応指導教室に在籍しているこども
の3割に発達障害傾向があるようなことを言っていました。
今はもっとかも知れません。

支援の場の難しさが出てきているようです。

・適応指導教室は発達障害を土台にした内容、体制組んでい
ない。
・適応指導教室は教員でなく指導員なので専門性が不安。
・逆に通級指導教室では利用回数がとれなく、登校の保障に
なるのか?
・通級でSST的なアプローチすれば、認知の修正などすれば
学校に向かうのか?
・適応指導教室は生徒指導、通級指導教室は特別支援という
ようにカテゴリーは違うのだが、2つの資源、サービスの併用
、使い分けは目下模索中。

このあたり、上手くやっている地域や手だてってあるのでしょう
か?
あるべき姿は適応指導教室に特別支援教育のプログラム、カ
リキュラムを導入していくということしかありません。
ただ、それを担保するために教室、支援の体裁を教育上のど
の制度、システムに乗せるかということなのでしょう。
ちょっと研究したい所です。

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そんなこと言われても…

 最近、御家族から立て続けに何件かきいた事柄です。

 園、学校とよく連携がとれていて、担任の先生も誠実で懸命
にやってくれるようです。よくお話しもしてくれるようです。
昼間の様子もよくわかります。
そのことはおうちの方も喜んでいます。
それで何が問題が?ということになるのでしょうが…

昼間の様子を伝えてくれながら、様々おこるあらわれや支援の
方向性について御家族に「どうしたらいいですか?」とお尋ねい
ただけるのだそうです。
「そんなこときかれても困るし、わからない…」というのが御家族
の困惑です。

 難しいです。
ここで問われているのはプロフェッショナリズムなのかもしれ
ません。
ニーズに合った支援、御家族と対話をしながらの支援は基本
にして極意、王道のありかたです。
そして、御家族がこどものことをいちばん知っているという捉
えも大事なスタンス。

でも、領域ってあるのだと思うのです。
集団でのありようや学習での方向性は支援者の専門領域。責
任範囲。そしてそれは家庭生活とはまったく異なり、家族には
想像理解が難しい分野でもあります。
日中場面は支援者のフィールド。
そこは責任を持って、こちらがやるべき場所です。
「どうしたらいいか?」きいちゃいけない。
どうやら、お尋ねいただいた先生方、みなさん、今年度から担
当しているようです。本当に困っているのでしょうね。誠実にあ
ろうとしているのでしょうね。

責任ってあります。率直にも質があります。
やり方によっては家族が困惑するだけだと思います。
逐一報告する、相談するって実は優しくない。

まあでも、このエピソード。
絶対良い方向へ向かっていく御家族と支援者のストーリーだと
思います。新年度に起こりがちな。
一生懸命向き合おうとする先生。
それに応えたいけど困惑している御家族。
そのプラスのベクトルが変な方向にいくはずはない。

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虐待は本当に増えているのか?

 先日、論文検索していて表題のようなテーマを扱っている
論文を見つけました。
相談や通告が増えているがそれって虐待件数が増えている
ということなのか?ということでした。

・価値の変化で相談や通告は増えている。
・歴史的にみても虐待的な扱いや死亡数は減少しているん
じゃないか。

ということでした。

価値の変化の中身は
・虐待の現代化、都市化
 現代化、都市化は虐待の原因となる一方で、その抑制にむけ
た機能も高まる。起こりやすいからこそ攻撃や放置に対して敏
感になり抑制効果を生む。
そこで相談や通告が増える。
・安全と危険のパラドクス
 安全が達成されると危険が目立つようになる。
そこで相談や通告が増える。

むすびは…虐待の発生件数の増加と相談件数の増加がイコー
ルでないにせよ、攻撃・放置を防ぎたいを防ぎたいという論調は
評価されるべき、ただ、虚像はつくっちゃいけないよねということ
でした。

 どうなんでしょうね?
事実としては発生数については私はわかりません。
だからといって「本当は増えてないよね。」ということは変な楽
観につながりそうで怖い気がします。

社会の基準や価値が変わったということに関しては発達障害
についてもおなじかもしれません。
「ああいうヒト、昔も居たけどなんとかやっていたよね。」という
論調はよくききます。「お父さん(お母さん)も似てたから…」も。

でも、社会人間関係が変化している以上、許容度もセーフティ
ネットも変化していて以前と同じようにそこそこみんなが生きて
いる保障はない。
昔はどうにかなったことでも今はどうにもならないことがある。
そのことを思わなければならないと考えます。

それから、困難に、より精緻に光があたるようになったのであ
ればその困難がマイノリティーのものであっても克服に向かっ
て丁寧な支援をすべきなのは、我々の生き方の追求として確
かなものです。
「昔はもっとひどかったよ。」
「昔はみんなそうだった。」
「昔はなんとかやっていた。」
で全て語ってしまうと世の中は真善美には向かっていかない。
それは確かだと思います。

一方で、見えてしまった以上はそこへ向かっていかねばならぬ
という強迫も生まれてしまいます。
細かく目がいくということは攻撃的・批判的・許容度の減少にも
つながるという側面も出て来る気がします。

支援というスポットライトの一方で、世の中全体を照らす明かり
のことも考えなきゃいけませんよね。

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感謝

 4月末、連休の入り口に我が社で飼っていたワンちゃんが
息を引き取りました。
おばあさんで、晩年は中枢神経系の病気に悩まされていまし
たが、おやすみのこの日、こどもたちの居る前で旅立ったの
だそうです。

乳飲み子の雑種を引き取ってきて10年以上になります。
実に良いイヌで、こどもたちを害したことは一度もありません。
こどもたちはむちゃくちゃしたのかもしれませんが。

生活を豊かにする意味で来てもらった所もあるこのイヌ。
確かに彼女をはさんでこどもたちと我々はよき時間に過ごしま
した。
彼女の存在は、動物の存在は、弱き者の存在は説明をこえた
温かみや関係を我々にプレゼントをしてくれました。

時が経ち時代が変わり、困難なこどもたちが多くなり、施設の
運営の形もかわって彼女に丁寧なお世話をしてあげられない
ことが増えてしまいました。
本当にすまないと思いました。
せめて晩年、穏やかな終の棲家をと考え、引き取り手も探しま
したが彼女はそれを拒んで不自由な我が社に帰ってきました。

そして、最後。
彼女はその旅立ちという節目をこどもたちの学ぶ場としてプレ
ゼントしてくれました。
我々はこどもたちに生き方を教えています。
生活と関係を通してそれを知って欲しいと思っています。
生きていくことを知ること、そのもうちょっと深みを知ることは生
老病死を知ることでもあります。
今の時代、人は、こどもは今をよく生きることだけを考えがちな
のかもしれません。
老いも病いもその他もろもろの不完全もみな「生」のうちです。
そのことって知って欲しい。自分も常に確認したい。
そう思っています。

いろいろ本当にお世話になった彼女ですが、私は最後にこのこ
とこどもたちに教えてほしいと思っていました。
人間のエゴです。
支援者のエゴです。
けれども、彼女も我が社で一緒に子育てをしてきた仲間です。
最後まで支援で生涯をまっとうできたこと。
最後までこどもたちを豊かなにしてくれたこと。
ただただありがたく思っています。

本当にありがとうございました。
ハルちゃん。
またどこかで会おう。
あなたも我が社の大事な大事なスタッフで多くのこどもたちに
愛されたこと、こどもたちをかえたこと忘れません。

ありがとね。
どうか天国で安らかにお過ごしください。

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思春期につきあうということ

 就労支援コースに配属された新人くんとお話ししました。
思春期の彼らと付き合うって頃合いが難しい。
新人くんのふるまいからも難しい。

・彼らは「構って欲しい」し、「放っておいても欲しい」
新人くんは「彼らと関係つくりたい」し「放っておいてほしい」気
持ちがわからないでもない。

・新人くんは同じ若者としては「彼らを尊重し思うがままに自由
に過ごさせてあげたい」けれど、先生としては「彼らを導いたり
ある意味管理調整しなければならない。」こともあることに苦慮
している。

・「就労のための生活」も大事だけど、「目的など考えない青春
の暮らしの充実と保障」もしたい。

 「頃合いって難しいよね。」と話しました。
ちょうど、朝、私は「二律背反」ならぬ「二律双生」という言葉を
知りました。
この記事から「二つは並び立たない」とか「矛盾」につながる
「二律背反」を思い出すかもしれませんが、ヒトの思いやらふる
まいはそんなものではなく、行ったり来たり。
「両面感情」や「頃合い」の中で暮らしています。
「二律双生」良い言葉です。

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「心配ないよ」「心配なんですね。」「心配しましょう、一緒に」

 根拠がないのに、目先の安心をプレゼントする(ように見える)
ために「心配ないよ。」と行ってしまう支援者がいます。
これはダメなのです。
なぜって心配のない根拠と見通しがまったくないから。
そして、いちばんよくないのは一見、優しそうに見えて共感して
いるようにみえて「心配している」相手の感情を抑え込もうとして
いるのが違うと思うのです。

心配しちゃう理由や根拠、感情があるのだからそれを「なしにせ
い!」っておかしなことです。
実は関係遮断的なのではないかと思ったのです、これ。

カウンセリング的な受容「心配なんですね。」は心配な感情を
受け止めます。これは共感的ですね。寄り添ってます。
私はもっと踏み込んで、「心配しましょう、一緒に」にまで寄ってい
くこともあります。まあ、これは私の場合はより具体的で、継続的
で、支援提示的な関係の相談が多いのでここまで寄っちゃうこと
があります。もちろん、相手や状況によりますが。

この所思うのは、基本、相手の感情や相手から発信されるものは
いったん受け止めるべきですよね。
「違う!」とやってうまくいく場面はひとつもない。

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