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あらわれの多様性と存在の理解

 最近いくつかのケースで感じたこと。
日中のあらわれと関係性だけでこどもの存在を理解してはい
けないなということ。
そして、もうひとつ日中の生活って厳しいなあ、ヒトの生きよう
はそこだけじゃないのにそこでのありようを巡る評価や対応
で決まってしまうことが多いなあということです。

こどもの評価や対応が生活の場と学校、園等とかなり差異の
あるケースがあります。
・みんなのやること、やるのが当たり前なのだろうか。
・秩序や枠にはまる育ちが当たり前の育ちなのだろうか。
・自分の欲求と今求められることとの折り合いがすぐにつけら
れるのが当たり前の育ちなのだろうか。
・内容に参加できることは当たり前の育ちなのだろうか。

そんなのが難しいこどもたちが来る場所で支援をしていても
このことから逃れられない。
ヒトとしてあるためには基本的かつゴールである事柄ですが
そこに至るのにはステップがある、
課題を抱えているのだから多くのステップや育て直しがいる。
それは当たり前なのだけれど…
「先生のいうこと聞く子が良い子なのだろうか?」
「大人のいうことを聞く子を我々は育てているのだろうか?」
そんなことを思ってしまう。

こどもは相手と場所によってあらわれをかえます。
チャレンジの場である日中の場ではたいへんなことが多い。
家とは違うよ、生活の場とは違うよ。
当たり前です。むしろ一緒であっては困る。
課題や関係に向き合うときの困難性について私は理解します。
まあでもそこでの困難性や手だてがその個の困難性や手だて
のすべてではない。
このことを理解しておきたいなと思うのです。
日中活動を支援するのは専門家(と言われている)ヒトが多い
ので、饒舌で言葉たくみ。
日中のあらわれでこどもを評価し理解していきます。
まあ、生活のありかたに触れることは多くない。
でも、それってやはり一面的だし、正確にはいつも「日中は」
という留保をつけなくてはならないのだろうなと思います。

対して生活の場を受けとめている家族などは言葉は知らない
し、上手な技術も環境もありません。そんなことしている暇も
そうないし、こどもは生活の場で向き合うヒトのいうことなんか
基本的にはきかない。
そりゃそうだ、弛緩しているから。

そことこことの齟齬っていつもある。

 でも、これは限界ではないのだと思うのです。
安易な共同歩調や共通理解を求めるからもめる。嫌な思い
をする。
絶対にみえない景色がある。
理解できない断絶がある。
ヒトはどうしても自分の状況でしか物をみえない。

この断絶には可能性がある。
あっちではみせない顔がある。
あっちではできないことがある。
あっちではそういう価値でこどもをみるならこっちはかえよう。
このことは可能性です。
個の全否定を回避することができる。

ただ、持っておくべきもの。
多様な場と関係の構造を理解し冷静にみつめる眼。
相手の立場にたって俯瞰できる視点。
こどものあらわれや参加の構造を分析できる発達的視座。
障害等困難の構造ではなく、来し方行く末をみる発達的な
まなさしです。

あっちのヒトがああみえてしまうのは仕方ない。
だから、こっちではこうしよう。
あっちのヒトのああみえてしまうのは理解するけど、狭量
で一方的だと思う。
だから情報提供しよう。議論しよう。仲良くなろう。

まあ、ただ、学校や園の悪口言おうと思ったんですが、そ
れじゃどうにもならないのでこんな記事になりました(笑)

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